「福島第一事故はなぜ起きたのか」再考

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1.はじめに

 先ごろ、福島第一原子力発電所(1F)事故についてのIAEA最終報告書が公表された。事故原因については、すでに多くの調査報告書において指摘がされており、もはや出尽くした感がある。しかし一方では、技術的な観点から更なる深掘りを行って根本原因に迫ろうとする試みは見当たらないように思われる。これは今回のIAEA報告書も例外ではない。そこで、この機会に再考してみたい。

2.「安全神話」は本当にあったのか?

 「原子力は『絶対に』安全」とは誰にもいえない。21世紀に一歩足を踏み出しつつ、人類が初めて原子力の火を手にした20世紀を振り返ると、原子力の利用は、電力の供給や各種の放射線の利用など多大な恩恵を我々にもたらす一方で、安全確保のためのたゆまぬ努力を不可欠なものとして求め続けることが分かる。原子力安全確保のための不断の努力には、「これで終わり、もう絶対安全」という安住の地は用意されていない。このことを忘れ、謙虚さを失うようなことがあれば、そこには新たな事故・災害が待っている。

 以上は、JCO事故の反省を踏まえ、平成12年版原子力安全白書の冒頭に書かれた言葉である(下線筆者)。同白書が公表された平成13年春からわずか10年で1F事故が起こると誰が想像できたであろうか?
 「安全神話」からの決別を明確に宣言したはずの我が国原子力界は、再び「安全神話」に囚われていたと批判されている。役所も事業者もメーカーも原子力安全に携わってきた関係者は誰しも自分が「安全神話」に囚われていたとは思っていないはずであるが、一方ではそれを明確に否定することもできない。では、「安全神話」は本当にあったのか?本当にあったとしたら、たった10年で安全に対する意識はなぜかくも風化してしまったのか?または風化したのではなく、安全神話からの決別などもともとできていなかったのか?その場合、何が根本的な問題であったのか?関係者はこうした問題意識に応える必要がある。

3.外的事象への備えについて

 1F事故の直接的原因が巨大津波、すなわち、設計想定を超えた外的事象であることは論を待たない。そして、そこから導き出される疑問は2つ、①なぜ設計想定を見誤ったのか?②設計想定を超える事象に対する備えはなぜ不足したのか?
 我が国の原子力発電所の安全確保の考え方は主として米国に依拠している。しかしながら、安全に対する脅威としての内的事象と外的事象の比重は米国とは大きく異なっている。従って、本来ならばその違いに配慮した安全確保の考え方があるべきなのだが、残念ながらそうはなっていない。内的事象については設計基準事象を設定して(たとえば破断しないように設計製作される配管が破断すると仮定して)、安全評価を実施する一方、外的事象については、まず立地条件でハザードの大きさを低減したうえで、保守的な想定の下、構造強度で安全を担保する(以下、構造安全と呼ぶ)設計を実施し、それ以上の評価は行わない。言い換えれば、外的事象に対して壊れない(機能喪失しない)設計をするというところで終わっている。筆者の個人的見解だが、このことが1F事故の根本原因ではないかと思っている。では、なぜそう思うのか、以下に説明する。
 1F事故では深層防護の考え方が欠如していたと言われている。深層防護は安全設計思想の根本をなすものであり、今更、それが欠如していたといわれると違和感を覚えるのであるが、事実、想定外の津波に対し一発でアウトであった。では、なぜ深層防護設計がなされていなかったのか?それは外的事象として最も重点を置くべきと考えられていた地震に対し、構造安全という「単層の盾」で備える考え方が関係者間に浸透しており、結果として外的事象全般に対する安全設計に深層防護を取り入れる発想がなかったからではないか、言い換えれば、外的事象に対するシステム安全設計の不在が原因ではないかと考えている。
 内的事象では、通常状態からの逸脱として異常な過渡を設定し、さらにそれが事故に発展する事態を想定する。事故進展の緩和に当たっては安全機能の一部が喪失するという保守的な過程も取り入れる。こうした安全評価の背景にある深層防護設計に普段慣れ親しんでいる安全設計関係者は、津波という外的事象に対する1Fの深層防護の欠如に愕然とするのであるが、よく考えてみれば、外的事象全般を踏まえた安全設計をシステム全体として一から構築する機会がなく、主要な外的事象と位置付けていた地震に対する安全設計を明確に意識することなく構造安全に委ねてしまっていたのであり、その結果が1F事故を生んだのである。
 では、今後、安全設計全体を外的事象も踏まえ総合的かつ体系的に見直す必要があるのか?たとえば外的事象起因の過渡・事故に対しても設計基準事象を想定し決定論的安全評価を実施するのか?それはあまりに膨大な仕事であり、技術的にも困難と思われる。そこで注目されるのが確率論的安全評価、PRAである。外的事象に決定論的安全評価を持ち込むのは大変な労力を要するが、PRAなら技術的には既にかなりのレベルに達しており、安全評価の実用に供することが可能である。単なる安全水準の評価・確認ではなく、外的事象に対するシステム安全設計の強力なツールとして、PRAを位置付けるのである。米国では内的、外的に関わらず既にそうした考え方が浸透しつつあるが、相対的に外的事象のリスクが高いにも関わらず、安全設計という観点でその対応に不備があった我が国においては、そうした活用へのニーズはより一層高いと考える。
 現在の我が国の規制は外的事象に対し、上述のようなシステム全体として安全を確保するというより、どちらかというと従来の考え方である「単層の盾」の厚みをさらに厚くする要求に重きをおいているようである。一方、事業者は電中研原子力リスク研究センターを設立するなどしてPRAに対する取り組みを本格化させつつあるが、現在のところ、研究開発が中心である。今後は規制庁、事業者双方が前述のような従来の考え方の問題点を明確に認識したうえで、PRAを有効活用しシステム全体としてバランスの良い効果的な安全対策を志向することが望まれる。
 以上、設計想定を超える外的事象に対する備えの不足についての根本原因とその対応策について述べてきた。では、そもそも設計想定が不足したのは何故なのか?これについては以下のように考える。

 1F事故の後、しばしば言及されることであるが、過去発生した巨大地震・津波を踏まえ、将来、同レベルのものが発生する可能性について考慮すべきという指摘が従前よりあった(ex. 総合資源エネルギー調査会 原子力安全・保安部会 耐震構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤合同WG 第32回議事録H21.6.24)のは事実である。問題はこうした知見を如何に設計想定に反映すべきかであるか、決定論的にはAll or nothingの判断に陥りやすい。事実、1Fではまったく考慮されなかった。
 得られている知見を最大限に活用するためには決定論では限界がある。不確かであるからといって、得られている知見を切り捨てるのではなく、不確かさは不確かさとして許容しつつすべての知見を公平・中立的に最大限活用しようとする姿勢があれば、決定論ではなく確率論的手法を活用して(ex. ロジックツリーによるハザードカーブ作成)更なる検討を加えることもできたであろう。設計想定を決めないことにはモノの設計はできないというのはその通りであるが、決定論のみに依存して、得られている知見を結果的に有効活用できなかったのが設計想定を見誤った原因である。言い方を換えれば、ある設計想定のもとで簡易的な方法でもよいので確率論的手法で残余のリスクを評価し、設計想定の妥当性を検証しようとする(ex. 当時の原子力安全委員会が策定した性能目標(案、炉心損傷頻度 < 10-4/年)に対してどうか)意志があれば、設計想定は見直されていたのではないか?得られている知見はその不確かさが大きくとも安全上の意思決定に取り入れる努力を怠ってはならないこと、その方法論としては、ここでもPRAが有力なツールになり得ることを事業者は今回の教訓として学びとらねばならない。
 一方、規制庁は1Fの津波想定が過小であったことから、外的事象全般についてかなり保守的な想定を事業者に要求しているが、「羹に懲りて膾を吹く」といった傾向はないだろうか?不確かさが大きい知見もすべて設計想定でカバーしようとすると過度に保守的な想定となり、過剰な負担を事業者に強いることにもなりかねない。事業者がPRAを活用して残余のリスクを評価し、安全目標に照らして設計想定を適正化しようと試みた場合、規制庁もそうした努力に一定の理解を示すべきと考える。

4.シビアアクシデントへの備えについて

 1F事故後、シビアアクシデント(SA)が規制対象となっていなかったことがしばしば問題とされている。しかし全く放置されていたわけではなかったことは、関係者なら誰でも知っている。
 平成4年、旧原子力安全委員会は、「発電用軽水型原子炉施設におけるシビアアクシデント対策としてのアクシデントマネージメントについて」報告書を決定し、原子炉設置者(事業者)に対してアクシデントマネジメント(AM)策の整備を強く奨励するとともに、行政庁(規制当局)に対しても、事業者におけるAM策整備状況についてフォローし報告するよう求めた。その後、事業者によるAM策整備及び規制当局による確認が順次進められ、平成14年には旧原子力安全・保安院により「軽水型原子力発電所におけるアクシデントマネジメントの整備結果について 評価報告書」がまとめられ、事業者が実施してきたAM策の有効性が最終的に認められている。
 このように、規制行為ではなかったものの、SA対策についてはその必要性を官民ともに認めたうえで、相当の努力を払ってきたのである。然るに1F事故が発生した後は、そうした努力や実績を忘れてしまったかのように、SAが規制対象となっていないことを問題視している。問題の本質は規制対象か否かではない。1F事故以前に行われてきたSA対策には何が不足していて、どうしてそうなってしまったのかを考えることこそが肝要である。
 残念ながら、ここでもまた我が国の特徴の一つである「海外をお手本とする」ことが原因のひとつではないかと筆者は考えている。TMI、チェルノブイリというふたつの事故を経験し、世界の原子力界は多くのことを学んだ。例えばヒューマンファクターの重要性であり、安全文化の重要性である。当然、我が国も然りであり、先に述べた我が国でのAM整備についは、TMI以降米国で行われてきた検討の成果が色濃く反映されている。しかし、明示的ではないにせよ、それらは機器のランダム故障やヒューマンエラーといった内的事象起因を念頭に考えられたものであり、地震、津波という外的事象起因の1F事故に対しては残念ながら有効に機能しなかった。
 前章の内容と重複するが、我が国の原子力発電所に対する支配的な脅威は何であるのかを直視することなく、海外の考え方や方法論をいくら学んでも、今回のような大きな抜けを生じてしまうことになる。今後の我が国の原子力安全に対する取り組み方を考えるうえで、このことを再確認しておきたい。

5.終わりに

 本稿では、主に技術的側面から1F事故の根本原因について考察した。そして、我が国の原子力安全設計の基本的考え方に潜む問題点や過去の事故事例に学ぶ姿勢の欠陥を明らかにした。
 我が国の原子力関係者は皆、過去の失敗に真摯に向き合い、そのたびに同じことを二度と繰り返してはならないと決意して努力を積み重ねてきた。そうした努力の実績から、「もうとんでもない事故を自分たちが起こすことはないだろう」とぼんやり思っていたかもしれない。しかし、それを「『安全神話』に囚われていた」などというあいまいな言葉で表現しても何も得るものはない。我が国の原子力安全に携わる人々が陥っていた本当の落とし穴は何なのか、これを明らかにし共有してこそ、関係者は今後の安全性向上に真に資する努力の方向性に確信が持てるのであり、社会はそうした当事者からの反省の声を待ち望んでいるのである。

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